エピソード1.5 ~孤独のランチ~

ゆとり社員ちゃんシリーズ
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 いどばた出版は都内某所にある小さな出版社だ。付近にはランチのできる店がひしめきあい、軽食の取れるカフェも多い。つまり、外で昼飯を食うにはまったく困らない立地にある。
 僕が入社したのは創業して間もないころだった。あのころはまだ自社ビルもなく、商業ビルの一角にいどばた出版はあった。喫煙者ばかりの社内で紫煙にまみれて残業をし、タクシーチケットを握りしめて明け方に帰宅する。ワイシャツのまま布団に寝そべる僕を、朝に妻が叱る。そんな毎日だった。
 創業20周年の節目に、二代目社長へと代替わりした。同時に、一本路地を入ったこの場所に自社ビルを建てた。バブル経済の波に乗ったというのもあるだろう。駅から少し離れたものの、ランチの利便性に変わりはない。

「池上君、どうだい? 今日は」
「ああ、すみません部長。午後から打ち合わせなので、移動して現地で食べます」

 池上君はひとつ頭を下げると、カバンを手に席を立った。

「そうかい。どの案件だったかな?」
「阿部さんに依頼している表紙の件です。お忙しいらしくて、こちらから出向いて打ち合わせを」
「なるほど。よろしく言っておいてくれるかい」
「はい。では」

 短く返事をして、池上君はオフィスを出て行った。
 彼は、僕が企画編集部の部長になったその年に、青洋出版から引き抜いた。今ではチーフディレクターとして、英語ジャンルや医療・健康ジャンルなど数多くのジャンルを担当している。ヒット書籍も多い優秀な編集者だ。

 ひとつ気になるのは、結婚のケの字もちらつかないこと。

 創業間もないころから懇意にしているデザイン事務所社長の阿部君は、その独特の口調からセクシュアル・マイノリティだと見受けられる。池上君は彼に相当気に入られているものの、彼自身にそういったセクシュアリティの特徴は見られない。つまり、30台も後半に差し掛かった今、そろそろ結婚を考えてもよいのではないかと思う。
 今日、池上君をランチに誘ったのは、いいひとがいるかどうか聞いてみたいと思ったからなのだが……仕事であれば仕方がない。ということにしておこう。

 もし、この話題を悟って逃げたのだとしたら、今度は飲みに誘うしかない。

 

「太田君、どうだい? 今日は」
「いいっすね! ゴチになります!」

 二つ返事でそう言った太田君は、今日もユニークないで立ちだ。後頭部を刈り上げて長髪をひとつに結った独特の髪型、そしていったいどこで買えるのか不思議になるようなTシャツやズボンを着ている。365日、同じ組み合わせの服装だった試しがない。僕が彼の奇抜な服装を覚えられないだけかもしれないが。

「実は、焼き肉ランチの新店ができたンすよ。あ、三つくらい駅向こうなンすけど、いいっスか?」

 ここぞとばかりにお高いランチをねだってくるあたり、ちゃっかりしていると思う。小遣い制の身分だが、それくらい奢ってやれる甲斐性はある。しかし。

「三つ向こう? それはちょっと難しいね。午後イチで全社会議なんだ、それまでに戻ってこないとまた社長に叱られてしまう。近くの店じゃダメかい?」
「あー……それじゃあ、今日のところは遠慮するッス。新店オープンの記念クーポンが、今日までなんスよ。スイマセン」

 僕の提案を斬り捨てて、太田君はスパッと頭を下げた。上司の提案であってもあっさりと断れる肝の強さは嫌いではない。そして、相手を待たせず頭を下げられる素直さも悪くない。この率直なコミュニケーションが、彼の魅力だ。

「そうかい。気をつけて行っておいで。あまり遅くならないように」
「ウイッス。また次の機会に奢ってください」

 斜め掛けのメッセンジャーバッグを背負って、太田君もオフィスを出て行った。戻ってくるのは夕方だろう。ふらふらしている時間も多いが、入社直後にグルメジャンルを開拓して次々にヒット商品を飛ばす彼だからこそ許される。マジメでお堅い営業部の人間には目をつけられているが、僕は彼を自由にさせてやるつもりだ。

 若かりし頃の自分を見ているようだ、とは、誰にも言ったことはないが。

 

「水口さん、どうだい? 今日は」

 長引いた打ち合わせから戻ってきた水口さんにも、ランチの誘いをかけてみる。

「あー、今日ですか……実はさっき、湯島さんとランチの約束をしてしまって」

 何色と表現すべきか迷う華やかな口紅の引かれた唇に人差し指をあてて、水口さんは戸惑いを見せた。

「そうかい。君たちさえよければ、僕も混ぜてくれないかな」
「わかりました。彼女にちょっと聞いてみますね」

 にっこりと笑って、静香は荷物をデスクに置くと打ち合わせスペースに戻っていった。
 この春、第二新卒として入社したばかりの湯島さんは、ゆとり世代の若い女の子だ。水口さんにとっては6年待ってようやくできたかわいい後輩でもある。彼女をOJTにつけたのは正解だった。仕事のやり方だけでなく、コミュニケーションの基本的な部分も鍛え上げてくれているらしい。
 ゆとり世代とはどんなものだろう。二回り以上も違うとなると、まったくもって未知の世代だ。僕は若くして結婚したので、水口さんが娘と同世代。彼女より6つも年下だと、どう接すれば心を開いてくれるのか皆目見当もつかない。
 せめて、一緒にランチをして少しでも彼女のことを知れたらいいのだが。
 水口さんが戻ってきた。その顔は、申し訳なさそうに曇っている。

「ええと……行きたいお店が、女子ウケするパンケーキ屋さんでして、その」

 やさしい嘘だ。おそらく湯島さんが難色を示したのだろう。いや、言葉では「もちろんいいですよ」と言ったのかもしれないが、水口さんの反応を見る限り、どうやら本音が顔に出たらしい。
 結論を言いよどんだ水口さんを手で制して、僕は気楽に笑った。

「ああ、いいよいいよ。ダメもとで聞いてみただけだから。二人でナイショ話でもしておいで。女子会、というんだっけ」

 きれいに整えられた眉をハの字に下げて、水口さんは申し訳なさそうにうなずいた。

「湯島さんも、もう少し心を開いてくれればいいのですが」

 どうやら水口さんも、僕と同じ悩みをもっているらしい。だが、僕は湯島さんの上司で水口さんは湯島さんのOJT担当。彼女の心を開かせてやれるのは僕ではなく、池上君や太田君でもなく、水口さんしかいないはずだ。

「そうだね。水口さんが突破口になると信じているよ。僕も、いつか湯島さんとも気軽にランチをしてみたいな」
「はい。そのときは私たちからお誘いしますね」

 うれしい一言を残して、水口さんは玄関で待つ湯島さんのもとへ駆けて行った。

 

「さて、結局ひとりか。孤独のランチだな」

 ガランとして人気のないオフィスにこれ以上用はない。午後イチで全社会議もあることだし、あまり時間はない。さあ、どこで何を食べようか?
 駅前の蕎麦屋で、安い・早い・美味いがモットーのざる蕎麦か。
 すぐ近くのバリ料理屋で、ナシゴレンにサテーをつけるのもいい。
 そういえば、駅向こうのタイ料理屋はランチタイムにコーヒーがつくようになったとか。

「いやいや、やはりこういうときは……」

 僕は駅とは反対方向に向かった。路地を一本曲がると、すでに生豆を焙煎するいい香りが漂ってくる。行きつけのその喫茶店の名は、『ムムーキ』だ。
 ピアソラの名曲を店名に冠するだけあって、店内にはさりげなくタンゴが流れている。僕がいどばた出版に入社するずっと前からここにある名店中の名店だ。
 自社ビルをこの近くに建てると知ったときは、通いやすくなる嬉しさ半分、隠れ家がばれる悔しさ半分で複雑な気持ちだった。同僚や部下たちに積極的に広めたわけでもないのに、すっかりみんなの行きつけになってしまった。
 葡萄のステンドグラスが美しい、重厚なドアを押す。どうやら今日は、いどばた出版の者は誰もいないらしい。

「ああ、部長さん。この時間にいらっしゃるのは久しぶりですね」

 マスターがニヤリと笑う。

「なかなか来られなくてね。いつもの、お願いします」

 ニヤリと笑い返して、いそいそと端の席に座る。
 スーツのポケットから読みかけの文庫本を取り出す。娘が小学生のころにくれた、四葉のクローバーのしおりを手繰って続きを読み始めた。
 何度も読み古した純文学。心地よく耳をくすぐるタンゴ。そして珈琲の香り。

 こんなランチも悪くない。

 ほどなくして運ばれてきたのは、「いつもの」――裏メニューである具なしカレーだ。
 若かりし頃、一端の企画編集者としてバリバリと働いていた僕は、昼飯を食う時間すら惜しかった。会社にいては煮詰まる。外に出たい、だが仕事はしたい。そんなとき、よく『ムムーキ』のお世話になった。
 右手で手帳に企画のネタを書きなぐりつつ、左手ではスプーンを握ってこの具なしカレーを掻っ込んだものだ。上の空で持ったスプーンが、皿の上のじゃがいもをいつまでも追いかけているのを見て、先代のマスターが「東野君には具なしで出してやろう」と冗談半分に作ってくれた。今のマスターに代替わりしてからも、それが僕の好物であることはしっかり受け継がれている。
 カレーは飲み物だ、と僕は主張する。妻は渋い顔をするけれど。

「どうもご馳走様でした。また来ます」

 マスターはまたニヤリと笑って、「いつでもどうぞ」と言ってくれた。
 あのカレーを食べた後は、どうにも食後の一服がなつかしい。あの頃は、『ムムーキ』も喫煙者にやさしかったが、今では入り口前のベンチに灰皿が用意されているのみだ。どこの喫茶店もそうであるように。
 とはいえ、僕はもう煙草を吸わない。妻にしつこく言われて禁煙外来に通い、ようやく禁煙できたのは二年前のことだ。僕ともっと長生きしたいのだ、という殺し文句に負けた。

「……やれやれ。そろそろ折れるとしようか」

 会社に戻る前に、気の重い案件は済ませてしまいたい。灰皿横のベンチに腰掛けた僕は、すぐに妻に電話をかけた。

 

「……ああ、僕だよ。今、話しても大丈夫かい?」

 妻の声は、まだピリピリしている。こういうときは、太田君を見習ってすかさず頭を下げるとしよう。

「昨日は僕が悪かったよ。二度と忘れない」

 これで何度目だったかしら、と白けた声がする。全面降伏するしかない。

「本当に悪かった。弁当箱は、夜のうちに出して自分で洗うよ。……だから、明日からまた弁当を作ってほしいのだけど」

 部下のみなさんとランチを楽しめばいいでしょう、とすねた声がする。そう、今朝そんなくだらない啖呵を切ったのは僕だ。

「……みんなに断られてしまったんだよ。孤独なランチを外で食べるより、君の愛妻弁当がいい」

 これは嘘だ。たまには孤独なランチもいい、と本音ではそう思う。だが、水口さんが僕にやさしい嘘をついたように、僕も妻にやさしい嘘をつく。
 しょうがないわね、と妻が笑う。きっと彼女も、僕の嘘を見抜いているだろう。

「ああ、助かるよ。……わかったわかった、帰りにスーパーに寄るから。何があれば作ってくれるんだい?」

 妻がそらんじる材料を、指折り数える。どうやらぶりの照り焼きとポテトサラダを作ってくれるらしい。もちろんどちらも僕の大の好物だ。

「忘れずに買って帰るよ。ああ、エコバッグも持っている。それじゃあね」

 お仕事がんばってくださいね、という最後の一言がうれしい。
 電話を切って、改めて思う。結婚はいいものだ。そういえば、このごろ妻に贈り物のひとつもしていなかったことを思い出す。水口さんに流行りを聞いて、口紅でも買って帰ろうか。

「……ふふ。池上君も、早くいいひとを見つければいいのになぁ」

 そう独り言ちて、僕は『ムムーキ』を後にした。

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