ゆとり社員ちゃん、転職する。~エピソード0~

ゆとり社員ちゃんシリーズ
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月曜の午前中、ことりは郵便局に行くふりをしてこっそりと会社を抜け出し、いつもは行かない駅向こうまで足を延ばしていた。電話をかけるのを、会社の誰にも聞かれたくなかったからだ。
「……はい、では今週木曜日の11時に伺います。よろしくお願いいたします。失礼いたします」
通話を切ってもまだ胸がドキドキしている。今日は寒さが緩んだものの、安堵のため息はまだ白い。

──あとは、木曜日に有給を取らなくちゃ……! でも、転職活動の面接ですなんて言うわけにいかないし……あ、歯医者! 歯医者ってことにしよう!

まるで隠密ミッションをこなしている気分だ。周囲に知り合いがいないことを確認して、足早に会社へと戻る。
金曜日の夜、ことりは自宅にたどり着くなりノートパソコンで「いどばた出版」を検索した。飾り気のないホームページを隅々まで見た。あのガラスケースで見たとおり、実用書や趣味の本を主に出版する地味で小さな出版社。創業は昭和で、今の社長は二代目らしい。出版業界自体が右肩下がりというから、生き残っているだけでもまあまあだ。
貼り紙にあった求人の内容も、少しだけ詳しく書かれていた。総合職で、仕事内容は総務部の事務。給料は今より下がるが、いわゆる9時5時で残業手当もちゃんとつく。

──出版社って、なんかカッコイイよね。なおつんたちにも自慢できる。でも仕事は総務部だから、9時5時の定時上がり。……で、オタ活に復帰する!

書いてあること全部を鵜呑みにするわけではないが、ことりの心を動かした一番の決め手は通勤時間だった。今の住まいから、バスを使えばドアトゥドアで30分もかからない。条件をすべて満たす求人に出会えたのだから、あの夜、道を間違えたのは不幸中の幸いだったのだ。
会社に戻ったことりは、上司に提出するべく有給申請書を書いた。入社以来、休日出勤の代休ばかり使っていたので、有給申請書を書くのは初めてだった。有給取得の理由をどう書くかネットで調べているうちに、つい「退職届 書き方」も検索してしまう。もちろん背後には細心の注意を払い、巧妙にブラウザを小さくして作業ウインドウで隠しながら、だ。

──うん。今日、家に帰ったら退職届書こう。

青木さんよりも先に退職届を出す。緑川先輩の結婚が発表されるよりも先に、絶対に。
転職先もまだ決まっていないのに、面接もこれからだというのに、なぜかことりはそう決めた。

そして、春。
いどばた出版のドアを押し開いたことりは、夢と希望に満ち溢れていた。退職ギリギリまで引継ぎに追われてオタ活に復帰するどころではなかったのだが、これからは違う。

──安定の総務部。憧れの9時5時。なおつんたちにも、報告しなきゃ……!

ところが、その夢と希望は社長から渡された辞令に打ち砕かれることとなる。
「あれ? ……えっ? これ、間違いではないんですか? 総務部じゃなくて、『企画編集部』って……あ、いえ、なんでもないです……」
微笑む社長。総務部のやさしそうな女部長ではなく、仏のようなスマイルを浮かべた初老の男性が「企画編集部部長の東野です。よろしくね」と手を差し出す。
ことりが苦笑いでその手を握り返した瞬間、素敵なオタ活ライフではなく刺激的な編集者ライフが始まった。

~~~この続きは、『ゆとり社員ちゃん、会話術を学ぶ。1 「傾聴力」が雑談スキルUPのカギ!』でお楽しみください~~~

はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
──石川啄木「一握の砂」より

出典 久保田正文 編(1993)『新編 啄木歌集』岩波書店p43

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