ゆとり社員ちゃん、転職する。~エピソード0~

ゆとり社員ちゃんシリーズ
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「湯島。……湯島!」
「あっ、はい! スミマセン!」
ビクッとなって飛び跳ねたことりを、営業部の緑川先輩が怪訝そうに見つめている。昨日の夜更かしが響いて、目を開けたまま寝ていたらしい。
「あれどうなった? 巻末のフレッシャーズインタビュー」
「え、あっ、えっと……まだできてなくって……」
「はァ? 原稿渡したの一昨日だぞ? 寝不足になるほど仕事たまってんのかよ。寝ぐせもひどいし」
腕組みしたまま人差し指がトントンとリズムを刻む。緑川先輩の癖だが、催促されているようで冷や汗が止まらない。
「あ、えと……朝、寝ぐせ直らなくって。その、昨日テレビつけたまま寝ちゃって」
「夜中に面白いテレビなんかやってるかァ? 年度末は繁忙期なんだから、体調管理くらいちゃんとしろよな。とにかく、現状どこまでできてるか見たい。カンプ出力して持ってこいよ」
「はっ、はい、スミマセン……」

──……あー、緑川先輩やっぱりイケボ。俺様キャラも似合ってる。個人的には、もう少し優しい感じがタイプだけど。

一応しおらしく謝りながら、ことりは心の中でそんなことを考えていた。緑川先輩の顔というか、声が好みなのだ。
営業部の緑川先輩は、先日から無断欠勤が続いている青木さんのOJTについていた人だ。彼女がいなくなってから一緒に仕事をするようになり、ほんのりと嬉しいのだが……

──深夜アニメ観ながら、ペンタブで萌え絵描いてました……なんて、言えないよね。

噂によれば、緑川先輩はマンガやアニメに一切興味がないリア充タイプで、どちらかといえばオタク嫌いなのだという。

──まー、そもそも会社でオタバレするつもりないし。

この2年、オタクであることをひた隠しにしてきた。数少なくなってきた同期にさえ打ち明けたことはない。

──だいたいお給料のために働いてるわけだし? わざわざ自分の身の上打ち明けて、雑談して人間関係のしがらみに囚われて、いいことなんかあるわけない。真面目に働いて、やることやってれば十分でしょ。

そんなことを思いながら、作業途中のデータを出力するべくことりはパソコンに向かった。

 

C&Mファーストは、ワンフロアに全部署が集まっている。フロア中央には、社長がこだわったというスタンディングデスクの打ち合わせゾーンがあって、緑川先輩は大抵そこにいる。
カンプ紙を渡しに来たことりの耳に、緑川先輩と営業部部長のコソコソ声が聞こえてきた。
「……マジ? じゃあお前、結婚すんの?」
「そっすね、責任取る気はあるんで。あ、公表するのしばらく待ってくださいね? 一応、公表は安定期入ってからってカノジョに言われてるんすよ」
「わかったわかった。じゃあ、青木さんは産休とるの?」
「いやぁ、うちの会社じゃ産休育休ムリじゃないっすか? アイツも退職の方向で考えてると……あ、湯島! おせーよカンプ!」
呆然と立ち尽くすことりに気づいて、緑川先輩は強引にカンプ紙を奪い取った。

──なんだ、そっか。そうだったんだ。

緑川先輩と、青木さんは。
フロア中央でそんな話をしているということは、おそらく公然の仲だったということで。

──全然気づかなかった。

無断欠勤のことも、緑川先輩との関係も、妊娠のことも結婚の予定も聞かされていなかったのは、ことりと青木さんが雑談をするような仲ではなかったからだろう。仕事のやり取りはもちろんあったが、そういえばプライベートな話はしたことがなかった。
緑川先輩のことは、別に好きじゃなかった。だけど、急に重力が倍になったような気がするのはなぜだろう。
ピシッ、と人差し指でカンプ紙を弾いて、緑川先輩が言う。
「いいよこれで。こことここ、写真素材のっけてデータ送っといて」
「は……えっ? ま、まだ完成じゃないんですけど……写真が映える背景色にしたいですし、テキストレイアウトも微調整しないと……」
ボソボソとことりが言うと、緑川先輩は面倒くさそうに手を振った。
「いい、いい。どうせ、こんな巻末のインタビューなんか真面目に読むやついないんだし。だいたいお前、あと何件のレイアウト抱えてるんだよ。今月号の〆切分かってるか?」
営業部の部長もチクリと小言を刺してくる。
「そうだぞ湯島。お前、効率ってものをもう少し考えないと。そこそこに仕上げてどんどん案件回していかないと、体ひとつじゃ足りないぞ」
「あっ、はい……。あの、じゃあ、すぐに写真素材のせてデータ送りますね」

 

──転職、都内、事務職。

今日は金曜日だった。23時発の電車はいつもより混んでいて、飲み会返りのアルコール臭が充満している。

──転職、都内、事務職……通勤時間、30分以内。

専門学校時代から引っ越していないあの部屋から今の会社までは、ドアトゥドアだと1時間を超える。
条件を追加したことにより、ヒットする求人数は激減してしまった。仕方なく、「事務職」のチェックを外して再検索する。

──お、「週休2日正社員」……って、飲食じゃん! 盆暮れ正月がない仕事はイヤ!
──ふむふむ、「急募・経理事務」……経理経験のある人優遇。数字弱いし無理ムリ。
──こっちは「未経験可デスクワーク」……システムエンジニアかぁー!

夢中になって転職サイトを眺めていたことりだったが、電車のドアが閉まる瞬間、背筋がざわついた。
「あれっ?」
ドア一枚隔てた向こうには、見慣れたホーム。滑りゆく地下鉄の壁。最寄り駅の駅名標はあっという間に見えなくなった。

──やっちゃった!

起きていたのに乗り過ごすなんて。内心の動揺を隠し、まるでここが私の最寄り駅なんですよという顔をして次の駅で降りた。
タクシー乗り場には長蛇の列。そういえば、金曜日の夜だった。
「はぁー……しょうがない、歩いて帰るか……」

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